LOGIN改札を抜ける人の流れの中で、朱里は立ち止まっていた。約束の時間より、少し早い。嵩はまだ来ていない。──待つ、って。こんな気持ちだったんだ。不安がないわけじゃない。でも、胸の奥にあるのは、落ち着いた温度だった。スマートフォンが震える。《今、着いた》朱里が顔を上げると、少し離れた場所に嵩が立っていた。スーツ姿。少しだけ疲れた顔。でも、こちらを見つけた瞬間、表情が緩む。その変化に、朱里は胸がいっぱいになる。歩み寄ってくる足音。いつもの距離で、止まる。「お疲れさまです」「中谷も」それだけで、十分だった。並んで歩き出す。会えなかった時間を埋めるような会話はしない。天気の話も、仕事の愚痴も、今日は要らない。駅を出て、夜の街へ。「……変わった?」嵩が、ぽつりと聞く。「何がですか」「雰囲気」朱里は少し考えてから、答えた。「変わった、というより……逃げなくなった、かもしれません」嵩は、歩きながら小さく笑った。
嵩がいなくなってから、オフィスは少しだけ広くなった。実際には何も変わっていない。同じデスク、同じコピー機、同じ始業のチャイム。それでも朱里は、空気の密度が違うことに気づいていた。「中谷さん、これ確認お願いします」瑠奈が資料を差し出す。相変わらず、まっすぐで、遠慮がない。「ありがとう」朱里は受け取りながら、ふと笑った。最近、自分がよく笑うことに気づいている。無理に明るくしているわけではない。ただ、息がしやすくなった。昼休み、スマートフォンが震えた。《今週は向こうも落ち着いた。 来週、そっち行けそう》短い文面。絵文字も、余計な言葉もない。朱里は、すぐには返さなかった。焦らなくていいと、思えるようになったから。《無理しないでください》そう打ってから、少し考える。《でも、来てくれたら嬉しいです》送信。胸の奥が、きゅっと鳴る。それでも、不安より温かさのほうが大きかった。仕事帰り、駅までの道を歩く。以前なら、隣に誰かがいないことを数えていた。今は、次に会える日を数えている。──変わったな。
朝の空気は、思ったより冷たかった。朱里は駅へ向かう途中で、何度も足を止めそうになった。見送ると決めたのは自分なのに、身体がそれを拒んでいる。改札前は、人が多かった。出勤の波と、出張者と、いつもの朝。──この中に、嵩も混じってしまう。そう思うと、胸の奥がきゅっと縮む。「中谷」後ろから呼ばれて、朱里は振り向いた。嵩はスーツケースを足元に置き、少し困ったように立っていた。昨日と同じ顔。でも、もう“同じ日常”の人ではない。「来てくれて、ありがとう」「……はい」それだけで、会話は途切れた。言うべきことは、もう全部言った。そう思っていたのに、沈黙はまだ重い。嵩は一度、視線を落とす。それから、意を決めたように口を開いた。「答え、ちゃんと用意してきたんだけど」朱里の指先が、わずかに震える。「……でも、やめた」驚いて見上げると、嵩は小さく笑った。「昨日の夜、考えた。“行く”“行かない”とか、“待つ”“待たせる”とか……全部、結論を出そうとした」スーツケースの持ち手を、軽く握り直す。「でもさ、それって──朱里の選択を、先に奪う気がして」
朱里の言葉が消えたあと、オフィスには、しばらく何も起きなかった。嵩はすぐに答えなかった。慰める言葉も、綺麗な締めも用意しない。ただ、視線を外し、ゆっくりと息を吐く。「……そっか」それだけ言って、少し笑った。苦笑に近い、でもどこか安堵したような表情。朱里は、その横顔を見つめる。“大嫌い”と言わなかったことで、何かが壊れる気がしていた。でも壊れたのは、沈黙のほうだった。「正直に言うと」嵩は天井を見上げる。考えを整理する癖は、昔から変わらない。「最初から、嫌いだなんて……信じてなかった」朱里の胸が、ひくりと鳴る。「冗談だって、照れ隠しだって、分かってた。……分かってた、つもりだった」嵩は朱里を見る。真っ直ぐだが、責める目ではない。「でも、信じ続けるのって……結構、怖い」その一言で、朱里は悟った。彼もまた、守っていたのだと。「嫌われてないって信じるのは、裏切られたときに、全部自分が傷つくから」嵩は、そこで言葉を切った。「だから俺は……途中から、“本気で嫌われてる”って思うほうを選んだ」朱里は何も言えなかった。
別れの日は、思っていたより静かだった。 送別会の片づけが終わり、フロアには人の気配がほとんど残っていない。 窓の外では、いつもと変わらない夜景が光っていた。 ──こんなものか。 朱里は自分の胸の奥を探る。 痛いほど苦しいのに、世界は何事もなかったように続いている。 「中谷」 呼ばれて振り向くと、平田嵩が立っていた。 スーツ姿のまま、ネクタイを少し緩めている。 見慣れた姿なのに、今日だけは“遠くなる人”に見えた。 「……お疲れさまでした」 それだけ言って、帰ればよかった。 そうすれば、何も壊さずに済んだ。 でも、足が動かなかった。 「送別会、ありがとう」 嵩が言う。 いつも通りの、穏やかな声。 朱里は笑おうとして、失敗した。 喉の奥に、何かが詰まる。 言い慣れた言葉が、自然に浮かんできた。 ──大嫌い。
送別会が終わり、店の前で自然解散になった。 「お疲れさまでしたー」 「また明日ー」 そんな声が夜に溶けていく。 朱里は駅へ向かう道を、一人で歩いていた。 胸の奥が、まだざわざわしている。 (……結局、何も言えなかったな) 後悔、と呼ぶには少し違う。 でも、満足とも言えなかった。 その時。 「先輩」 後ろから、聞き慣れた声。 振り向くと、望月瑠奈が少し小走りで追いついてくる。 「一人で帰るんですか?」 「……うん。瑠奈は?」 「私もです。方向一緒ですよね」 並んで歩き出す。 少しだけ、間が空いた。 先に口を開いたのは、瑠奈だった。 「今日」 短く、切り出す。 「先輩、何も言わなかったじゃないですか」 朱里の足が、ほんの一瞬だけ遅れる。 「……うん」 「正解だと思います」 即答だった。 朱